城所理事長コラム 〜第38回〜 「この両親がいて、わたしが今日あります (後編)」 戦争が終わって、さて帰ってみると、残した財産は紙屑も同様。上野公園で呆けたようにタバコを吸っていたら、紳士然とした人から「タバコを一本わけてほしい」と大枚(?)の金をだされたとき、愕然としたそうです。自分は戦前の貨幣価値からして大枚と思ったのに、いまはタバコ一本の値段でしかなくなったのか、と。 一念発起して思いついたのが、生地を商うこと。というのも、母が洋裁関係の学校を出ていたので、その役に立つ商売を考えてのことでした。 そして持ち前の事業センスでどこからか羅紗の生地を仕入れてきて、そして羅紗屋「るつぼ」を開きました。ただし父は母に「俺が見るところ、お前は計算が得意で、経営センスがある。だから商売だけをやっていればいい」と言って、その商売いっさいを母にまかせてしまいました。 父は、現実の細かい詰めは苦手で、事細かな経営より、エイヤッという感覚で事業をするのが向いていると自覚していたのでしょう。晩年は、幼い頃に親しんだ土いじり、庭いじりをしながら、兜町で株取引をやっていました。 世間の目を気にせず、男と女の性区別なんて関係ない、適材適所こそと割り切る考えの持ち主でしたから、思い切りが勝負の株屋には向いていたかもしれません。 ただし、もちろん儲かるときもあれば、ひどく損するときもありました。 そういう一環として現・赤坂クインビルという不動産を、いずれ赤坂が繁華街になると読んでか、まだビルが少なかった三十八年前に先行投資して購入したらしいのです。そして例によって、その経営は、それを得意とする母に任せたのです。 母は、父から託された神田の「るつぼ」を切り盛りし、繁盛するままにたちまち三店舗にまで拡張させてしまいます。 父が母に言った「商売だけをやっていればいい」という言葉は、裏返せば「家事はやらなくていい」ということでした。そして実際、母は父の言葉を文字どおり忠実に守って家事をいっさいやらず、お手伝いさんに任せっぱなしでした。ですから、わたしは母の手料理を一度も食べたことがありません。 家事をなにもやりませんから、商売の合間に多少は自分の時間が持てます。母は、だいたい大正から昭和の初期にかけて独身時代にはモガ(モダンガール)として楽しんだようですから、それこそいくつもの芸事に手を染め、次から次へと新しい趣味に手を出しました。 須田町の生地商売は、糸ヘン業の衰退と、ちょうど秋葉原の電気街が拡張して万世橋を渡り須田街のほうに進出してきたのを機に、それを手放しました。同じ頃に赤坂のビルを購入して母が経営することになりましたが、間もなくわたしが管理の責任を負うことになりましたからから、それからというもの母は趣味一途です。 いま八十六歳の母は、きょうは日本画を描き、琴を奏でるかと思えば、あすは社交ダンスを楽しんでから麻雀卓を囲む…という悠々自適の毎日です。> 商店街振興組合 エスプラナードアカサカ 理事長 城所 ひとみ 商店街振興組合エスプラナードアカサカ 〒107-0052 東京都港区赤坂3-10-5 赤坂クインビル4階 TEL:03-5561-9125 FAX:03-5561-9128